2021論壇/中日線上交流會
從開放教育到常民政治
台灣曾有長達 38 年的戒嚴時期(1949~1987),戒嚴時期的社會遭到扭曲,一切都不正常,解嚴是潮流所趨。解嚴並不只是政治的正常化而已,同時需要大量的社會運動,去正常化台灣的各個方面。
大約在解嚴前幾年,當時台灣年輕人(現在老了)確認時機已到,政府已不可能再大量抓捕異議者,於是元氣淋漓地組織推進各路的社會運動:有環境保護、婦女平權、教育改革、工會運動、農民運動…等等,即使是貓狗等動物的權益,都有社會運動加以伸張。由於這個歷史機緣,台灣成為一個社會運動極為發達的國家。
這些社會運動有四方面的特性:
- 皆以人民能有正常合理的生活為出發點。
- 強調為子孫們保留一個適合人居的環境。
- 進行社會治理變革的前導性倡議。
- 想成就一個尊重所有人的多元社會。
在戒嚴時期,台灣在政治與社會變革的主要倡議由文官提出,但是在解嚴之後,文官提出的治理新倡議,時常以失敗告終,社會治理變革的倡議改由社運團體提出:由社運團體和人民長期溝通,並且不斷修正倡議方案的可行性。當人民開始了解並接受這些倡議之後,同時實踐方案經過多番修改變得較為可行,再由文官收割,推出政府版本的執行方案,並成為文官的政績。這種模式有一個優點:即文官不用承擔倡議失敗的政治風險。
事情之所以會變成這樣,有兩個重要的原因:
- 人民之中的意見領袖,經歷過帶領社會走出戒嚴,已經變得非常「不乖」,他們覺得自己可以改變社會,不會追隨政治人物。這使得政治人物面臨「刁民遍地,官不聊生」的局面,文官如果隨意依自己意見推出新的治理倡議,失敗風險極高。
- 當今掌權的文官在三十幾年前也是青年,和帶領台灣走出戒嚴的社運領袖們,曾經有過深厚的交誼,也能溝通意見。
丁丁自己就是個「教育社會運動」的老兵,循上述模式參與的親身經歷就有:(以下不必詳細翻譯成日文,舉一個例子即可)
- 廢除大學共同必修學分表。
- 廢除以特定師範院校培育師資,讓普通大學也可培育師資,削弱政府對教師培育與聘用的控制。
- 推動教師可以合法組織教師團體,這在戒嚴時期是禁止的。
- 推動公立學校教師與公務員分途,成為受聘的專業人士,不受文官指揮。
- 推動中小學校長遴選制度。
- 廢除中小學由政府編輯教科用書,改成由民間編輯,老師選用。
- 推動立法保障政府以其收入的 23% 做為教育經費。
- 立法讓中央政府對地方政府的基本補助依公式計算,沒有主持文官的任意性。
- 立法讓中央政府的各種專案補助,須經過獨立委員會的審議,降低主持文官的任意性。
- 敦促政府推動以「校本課程」為基底的九年一貫課程。
- 敦促政府實施十二年國民基本教育。
- 參與一○八課綱的制定與實施,大力提倡學生的自主學習空間。
- 推動立法,賦與人民可以起草國家課綱的權力。
- 推動立法,讓人民可以自己動手打造符合自己需求的教育。
- 推動「自主學習典範」並且發展出完整的工具箱。
- 推動「自主學習典範」橋接進入到體制學校教育,逐步取代過去三百年來,工業化式、流水線式、老師教學生學的「傳統教育典範」。
- 讓人民在類似城堡的「機構」中學習,走向讓人民在社會「網絡」中學習––開門辦教育。
但美好的事物總有結束的時候,目前台灣的教育社會運動,正面臨一次巨大的斷裂:三十歲以下的年輕族群,對教育社運沒有興趣,他們有自己的世代,有自己世代的特殊問題,老一輩的社運世代和年輕世代之間,合作的並不好。這是台灣社運界正在思考的深刻問題:過往以社會運動驅動的社會前進,還能持續下去嗎?有需要持續下去嗎?還是會有新的模式興起,並且可以由年輕世代良好運作?且讓我們拭目以待。
開放教育(開かれた教育)から常民政治(庶民化政治)へ
- 丁志仁(TING-CHI-REN ティン・ヅ・レン)
- 振鐸学会理事長・福留子孫ネットワーク招集人
台湾は38年間の戒厳令の時代(1949年〜1987年)があり、社会が歪み、すべてが異常だったため、戒厳令を解除するは大勢の赴くところ、人心の向かうところになってしまった。 戒厳令を解除するため、政治的な正常化だけでなく、台湾のあらゆる側面を正常化する大規模な社会運動が必要とされた。
戒厳令解除の数年前、その時台湾の若者(今は歳取った)は、政府が反体制派を大量に逮捕できない時代は遂に来たのをわかり、環境保護、女性の同権、教育改革、労働組合運動、農民運動など様々な社会運動を組織して推進した。このような歴史的機会があったからこそ、台湾は社会運動が非常に発達した国になった。これらの社会運動は四つの側面で特徴づけられる:
- それらはすべて、人々が普通で合理的な生活を送ることができるという考えから始まった。
- 将来の世代のために居住可能な環境を残すことに重点を置いてた。
- ソーシャルガバナンスの変革に向けた先駆的な取り組みを提唱した。
- すべての人を尊重する多元的な社会を実現したいと考えていた。
戒厳令期間中、台湾の政治的・社会的変革のための主要なイニシアティブは文官によって行われていたが、戒厳令解除後、文官によって行われた新しいガバナンスのイニシアティブはしばしば失敗に終わって、むしろ社会運動団体の方がガバナンス改革をリードしているとは言える。何故なら、社会運動団体は改革について、常に庶民と話し合っていて、提案を修正し合っているのであるから。それで改革の取り組みを人々に理解してもらい、受け入れてもらうことから始め、提案が何度も修正されて、より実現可能になった後、それらは文官によって収穫され、政府版の実行計画に導入させ、文官の政治的な業績となる。このモデルには、イニシアティブの提案が失敗となる政治的リスクを「負わなくて良い」という利点がある。
このような状況になった理由は、二つある:
- 民衆の中のオピニオンリーダーたちは、戒厳令から社会を導いた経験から、「自分たちが社会を変えられる」と感じ、政治家には従わないほどの「お行儀の悪さ」を身につけていた。 そのため、政治家は「刁民遍地(手に負えない人たちがあちこちにいて)、『官』不聊生(官僚が安心して暮らせない)」という状況に直面し、文官は自分の意見に従って勝手に新しいガバナンスの取り組みを導入すると失敗するリスクが高いという状況になってしまった。
- 今、権力を握っている官僚たちも、30年ほど前には若者であり、台湾を戒厳令から解放させた社会運動のリーダーたちと深い友情で結ばれ、意見交換が上手く行ける。
ティンティン(訳註:丁理事長が呼ばれるニックネーム)自身も「教育社会運動」のベテランであり、上記のモデルに従った個人的な社会改革経験は次の実例がある:
- 全国大学共通の必須単位リストの廃止*。
- 特定の教員養成大学による教員養成を廃止し、一般の大学でも教員を養成できるようにして、政府による教員養成・採用の管理を弱める*。
- 戒厳令時代には禁止されていた教師のグループの合法的な結成を促進する*。
- 公立学校の教師を公務員から分離し、専門家として雇用し、官僚・公務員の指示に従わないようにすることを推進する*。
- 初等・中等教育機関の校長の選抜システムを推進する*。
- 初等・中等教育における政府編集の教科書の使用を廃止し、民間の編集者と教師に置き換える*。
- 法案を推進し、政府が歳入の23%を教育に費やすようにした。
- 中央政府から地方政府への基礎的な補助金は、主席事務官の恣意性を排除した計算式に基づいて算出されることを法制化する。
- 様々なプロジェクトに対する中央政府の補助金を、独立した委員会の精査の対象とすることを法制化し、主宰する文官の恣意性を減らす。
- 法案を推進し、国民にナショナル・カリキュラム(日本の場合=学習指導要領)を起草する権限を与えた。
- 法案を推進し、自分のニーズに合った教育を自分で作れるようにした。
- 「自己主導型学習パラダイム」を推進し、完全なツールキットを開発する。
- 過去三百年間の工業化された、生産ライン型、教師が学習者を統制する「伝統的な教育のパラダイム」に代わって、「自己主導型学習のパラダイム」を推進し、制度的な学校教育に橋渡しする。
- 人々は「城のような施設で学ぶ」から、社会的ネットワークの中での学ぶ、つまりオープンドア教育へと移行していきます。
しかし、すべての良いことには終わりがあるもので、台湾の教育・社会運動は今、大きな区切りを迎えている。三十歳以下の若者は教育・社会運動に関心がなく、自分たちの世代には自分たちの世代の特別な問題があり、社会運動の年配世代と若い世代との協力関係は良好ではない。 これは、台湾の社会運動界が考えている深遠な問題である。つまり、過去の社会運動が主導していた社会的進歩は維持できるのか? 続ける必要性があるのか? それとも、若い世代がうまく運営できるような新しいモデルが登場するのか?待ってみましょう。
- 註:戒厳令時代において、独裁政府が教育を統制する「伝動用チェーン」を「切る」こと。